~吉野・宮滝~

AM7時に近鉄名古屋駅を出発。
途中 三重県津駅で乗り換え大和八木駅へと向かう。
集合時間の9時30分にメンバーと合流して一路吉野へ。

途中やまとびとの粋な計らいで思いがけず本薬師寺跡をみることができた。
本薬師寺といえば680年。時の天皇である天武天皇(大海人皇子)が奥さんの持統天皇の病気平癒のため発願された寺院で、今は西の京にある薬師寺の前身である。
6~7年前に一度訪れたことがあるのだが、残念ながら東西両塔の礎石と土壇を残すのみ。
しかしその整然と並べられた礎石を人目見れば誰しもが往時の薬師寺の大きさを想像できるであろう。
いつ頃からか周囲を取り囲むようにホテイアオイが楽しめ開花の時期には多くの人が訪れるそうだ。(ホテイアオイの咲く頃に一度訪れてみたいものだ)
天武・持統両天皇二人の思い出の地、宮滝へと向かう私たちにとって、この本薬師寺跡が見れたことはとても意義深いものだった。
今回の旅をプロデュースしてくれたT氏は、あえて口にはされなかったが、ホテイアオイといいつつきっとこうした筋書きを準備してくれていたんだと今になって感じている。
さて、景色はあっという間に1300年前と変わらない天の香具山を左手に、少し行くと雷丘(いかづちのおか)、甘樫丘(あまかしのおか)を右手に見る。
地名の看板を見つけ、風景が目に入ると、ここは1300年前に一気にタイムスリップ。
ああ、飛鳥だ。
久しぶりに見るその光景に、何だか懐かしさと、そして一種違った空気を感じ、独り物思いにふけってしまいそうだった。
するとすぐに左手に大好きな川原寺跡が見えてきた。
何度となく見たことのある風景。
変わらぬ景色。
新緑の飛鳥。そうだ。この季節に飛鳥を訪ねるのは初めてかもしれない。
そして更に近年、大変お世話になっているあすか風舞台が右手にみえてきた。
今年の秋はご縁があるのだろうか。そんな不安な気持ちも払拭できるほどに緑が眩しい。
いつもなら石舞台を過ぎると、飛鳥の賑わいは全く感じなくなり人影がまばらなのだが、今日は違っていた。
この日は二十四節気の芒種。
その名の如く、稲渕の棚田では飛鳥人による田植えが行われていた。
昨年音楽祭の副賞で頂いた明日香米は、ここから始まっていたんだなあ。
そんなことを思いながら、いよいよ芋峠へ。
この日は更にマラソン大会の練習を芋峠でしてみえて、普段は人っ子独り通らなさそうな狭い道路はランナーであふれかえっている。
さて、往時の歴代天皇が行幸したという吉野へはどういった道順を行ったかといろんな説があるのだが、やはりこの飛鳥を越え、芋峠越えで吉野へ直接入る経路だっただろうと思う。アップダウンと急カーブの激しい山道であるが直線距離にして500Mと最短距離である。

「み吉野の 耳我の嶺に時じくぞ 雪は降りける間なくぞ 雨は降りけるその雪の 時なきがごとその雨の 間なきがごと隈もおちず 思ひつつぞ来し その山道を」万葉集 巻1-25 天武天皇

訳:ここみ吉野の山に、時となく雪は降るという。絶え間なく雨は降るという。その雪の時とてないように。その雨の絶え間もないように、長い道中ずっと物思いに沈みながらやってきた。ああその山道を。

(この耳我の嶺は所在不詳となっているが、ある本にはこの耳我の嶺は芋峠を越えていく途中の山であったのではとも言われている。)

芋峠にいる自分の中でこの句がぐるぐると頭を渦巻く。天武・持統さんたちもこの地面を踏み締めながら通ったかと思うだけで、わずかに残る古道から往時の足音が聴こえてきそうだ。

途中清流が芋峠を流れ、役行者の石仏があったりと時代の移り変わりも感じながら一気に吉野へと向かった。

あっという間に吉野へ入る。
まさに1300年前には、大海人皇子(天武天皇)と
野讃良皇女(持統天皇)も数少ない身内のみをつれて一旦避難した宮滝へと向かう。
そして石碑「宮滝遺跡」が目の前に。
こちらも数年前に一度だけ訪れたことのある地。
足早に当時は廻ってしまったため、こんなにじっくりと行くのは格別な想いがこみ上げてくる。
斎明天皇から持統天皇、そして聖武天皇が行幸した吉野離宮。
中でも持統天皇は在位中31回と群を抜いている。
その理由はいろいろ考えられるが、今でいう桜の吉野でなく、川の吉野、山の吉野の渓谷美に中国の神仙思想を見て、神聖な聖域で降雨、止雨の祈りを捧げた場であったこと、壬申の乱を中心とした天武天皇との二人のかけがえのない思い出の場所であったことなどが何度も宮滝へ行幸した理由に考えられるようだ。私、女性の立場からすると、やはり天皇という立場であるがゆえ、壬申の乱直前に夫、天武天皇とただ二人共有できた時間を宮滝に足を運ぶことによって、唯一
野讃良皇女個人に戻れる空間であったのではと思うのは、ロマンチックすぎるだろうか。

さて、宮滝遺跡。
石碑から程近いところに柴橋がかかる。
ここからの景観美はまさに1300年前と同じだ。
万葉集にも何首も詠まれている吉野万葉の中心といっても過言ではないだろう。

万葉集巻6は、吉野万葉の歌から始まる。その内の反歌より。

「山高み 白木綿花に落ち激つ 滝の河内は見れど飽かぬかも」巻6-909

訳:山が高いので、白く清い木綿花となってほとばしり落ちる滝、この滝の渦巻く河内は見ても見ても見飽きることがない

「落ち激ち 流るる水の磐に触り 淀める淀に月の影見ゆ」巻9-1714

訳:落ちたぎって逆巻き流れる水が岩にあたってせき止められ、淀んでいる淀みに月の影がくっきりと映っている

今回のメンバーならきっとこれを読みながら、すぐに情景が浮かんでいると思うのだが、それくらいに今も1300年前も変わらぬ心が風景の中に生きているのが宮滝でもあった。

柴橋の袂から象山と御船山との間、いわゆる象山の際(ま)=象の中山を少しあがったところの櫻木神社に案内していただいた。
ここでは思いがけないサプライズが待っていたのだが、ここでは万葉集についてのみ述べておこう。
象の小川を隔てたところに朱塗りの本殿がある。その象の小川を渡る屋形の橋、右手に「象の小川」左手に「こぬれ橋」と書かれた石碑が。

歌のままだ。といいたいところだがまさにそれだと知ったのは帰宅途中の私だった(笑)

「み吉野の 象山の際の木末(こぬれ)には ここだも騒ぐ鳥の声かも」巻6-924

木末は木の枝先のこと。訳の説明がいらない位に、律動感あふれた歌であり、その場所はこの歌の通り、鳥のさえずり、象の小川の清らかな水音だけが響き渡る素晴らしい場所であった。

「昔見し 象の小川を今見れば いよよさやけくなりにけるかも」巻3-316

訳 :昔見た象の小川を今再び見ると、流れはいよいよますますさわやかになっている(きれいな音を立てて流れているな)

犬養先生は著書(犬養孝 私の万葉百首より)の中でこの句について以下のように述べてみえる。

「皆さんが仮に吉野の象の小川のところを渡ってごらんなさい。~中略~ いよいよさやけくなりにけるかもです。~中略~ そうして思ったわれわれもこの世から消えるようでしょう。みんないなくなっちゃう。また何百年後の人も吉野へきて、やっぱり 『いよよさやけくなりにけるかも』を感じるでしょう。」と。
                          
いにしえ人もみた象の小川。ここに書かれている何百年後の人がまさに私たちだったのだ。そして同じ時を一緒に過ごし象の小川を感じたメンバーたちも自分もいつかこの世を去る。そしてまた数百年後の人が、同じ想いでここに立ち、歌を、万葉集を、いにしえ人の心を感じる。そう思えた帰路の電車の中で独り物思いにふけって、涙をこらえきれなかった。

そして次に吉野郡大淀町六田にある「柳の渡し」へとむかった。近世においては名の如く、北と南をつなぐ渡しであった場所である。六田の川、六田の淀という名で万葉集にも数首詠まれている。とある本によると、ここに弓絃葉の茂るコンコンと涌き出る泉があったという口承があるそうだ。
「いにしえに 恋ふる鳥かも弓絃葉の 御井の上より鳴き渡り行く」万葉集巻2-111
(意訳:昔を懐かしがって、あの弓絃葉の茂る井戸(泉)の上を鳴いていくあの鳥の名はなんというのだろうか)
この御井こそが、弓削皇子が吉野で額田王にあてて詠んだ御井(泉)と考えれるのではとあった。
そしてその反歌として額田王がこう答えている。
「いにしえに 恋ふらむ鳥はほととぎす けだしや鳴きし吾が念へる如」
(意訳:昔を懐かしがって鳴いていくその鳥の名はほととぎす。まるで私の心の内のように何度も何度も鳴いているわ)

吉野川沿いに走る伊勢街道の車の往来が激しいその脇で、近世建立された常夜燈が揺れる柳の下でひっそりと佇んでいる。1300年前の景色を心の中で思い浮かべると、この歌のように昔を懐かしがっているのではと思うだけで、そこには弓削皇子の心が、額田王の心が一瞬にして甦ってきた。

こうして今回の万葉の旅は、あっという間に終わりを向かえ、心とは裏腹に愛知へと帰途についた私であったことはいうまでもない。

ご一緒できた皆様に感謝申し上げます。そして今回の旅をプロデュースして下さったT氏に改めて御礼申し上げます。

吉野は私の想像を遥かに超えた万葉の心が、いにしえ人の心が根付き生きている素晴らしい故地でした。
全ての出来事に感謝。

とこおとめは食を通じて(株)八葉水産さんを応援しています。