~吉隠・初瀬~

2010年3月28日。
朝7時10分、近鉄名古屋駅を出発。
途中、伊勢中川で乗り換え、一路集合場所の榛原駅に。
今回の旅もプロデュースは奈良県人であり、某会の旅。
万葉の旅と綴るのにはいささか心許無いが、みなさん心の広い方ばかりなので許していただくこととしよう。
さて、閑話休題。
榛原駅で集合した私たち一行はまず西峠古墳へ。
この古墳は宇陀地域に見られる磚槨式古墳のひとつで、7世紀中期のもの。
この宇陀地方は、万葉の時代を考える上でもその地域性に特色があり、東は名張を越えて伊勢へと繋がるいわゆる伊勢街道、東は初瀬を過ぎて難波へと、また南は宇陀を越え吉野へとつながるいわゆる八十のちまたであった交通の要所であった。
大和のみに限らず外部も意識したであろうこの磚槨式古墳の被葬者の姿をも伝わってくるようである。
西峠古墳をあとにした私たちは、吉隠陵へと向う。
いや、登る。
国道165号沿いにうっかりしていると見落としてしまいそうな看板があり、そこが入陵口となっている。
ものの1分も歩かないところから、山登りにぴったりの山道が待っていた。
周囲は誰もいないその空間は、スギ木立の中をゆっくりと歩みを進めていくと、あっという間に下界との距離を感じる。
しばらくすると道案内があり、右方向に折れるとそこに200数段ある階段が待っていた。
数日前に雨が降ったこともあり、足元は決していい状態でないところを命からがら!?登った先に階段。
こうした場所にあることが吉隠という響きと不思議としっくりくる気もした。
そんな悠長なことを考えながら、階段を登りきったところに陵墓があった。
春日宮天皇妃(志貴皇子=贈名(亡くなってから贈られた名です)春日宮天皇の妻)の陵墓とされているが、一説に奈良県宇陀郡榛原町大字角柄にあるこの吉隠陵あたりを但馬皇女墓と考えるとあり、この地を訪問することに至った。
静かに手を合わせ陵墓外域を1周したあと、下山。
時間にすれば1時間位だったんだろうか。
足元の悪い中での下りは特に大変だったが、何とか全員ケガすることなく下山できたのにはただただ感謝するのみである。
書ききれないので大変と一言で片付けてしまったが、ある意味ドラマになりそうであった(笑)
さて、吉隠陵をあとにし次は万葉歌碑探しへと向う。
隠口の泊瀬と呼ばれたこの地域は、その名の通り、「こもりく」という言葉の響きがよく似合う場所だ。
吉隠公民館とあった場所には、吉隠テレビ共同事業組合の看板が掲げられており、その前の広場、満開の桜の木の下にその歌碑はあった。
そう、ひっそりと。

「降る雪は あはにな降リそ吉隠の 猪養の岡の寒からまくに」

正面には近鉄電車が走っていくのがみえる小高い場所であった。
その後、猪養の岡と思われるところを探しに吉隠を散策。
途中、集落に住む地元の人と出会った。
何でも集落は50数件から成っているとの事。
畑のゆずも水仙もとっていって下さいね、と、気さくにそして自然に言葉を交わして下さる。心が留まる。
やまとびとって素晴らしい。
心からそう思った瞬間でもあった。
川のせせらぎ、水脈の流れを感じながら、吉隠の猪養の岡を堪能。
ずっとずっと心に描いていた吉隠。
ここで最近完成した「寒からまくに」をアカペラで歌う。
何年越かに描いていた吉隠が自分の中に広がっていった。
もう、すっかり心の隅々まで吉隠色に染まる。
ありがとう。
吉隠をあとにした私たちは、泊瀬川沿いにある万葉歌碑を訪ねる。

「人言を繁み言痛み己が世に いまだ渡らぬ朝川渡る」

探して探してようやく見つかった歌碑であった。
更に桜井方面に足を運び、万葉集発祥の地の石碑のある白山神社へ。
雄略天皇の歌碑がある。

「籠もよ み籠持ち 堀串もよ み堀串持ち この岡に 菜摘ます子家聞かな 名告らさね そらみつ大和の国は おしなべて 我れこそ居れしきなべて 我れこそ座せ我れこそば 告らめ 家をも名をも」

万葉集巻一の1である。

こうして今回の万葉の旅は巻一の1を持って終わりをむかえたのであった。
帰路は桜井駅から乗車した私が目にしたものは、今日訪ねた万葉故地全てといっても過言でない位に車窓から見え、またじっくりと見ることができなかった忍阪山もしっかりと目の前に飛び込んできてくれたのである。

帰り際に下さった小冊子の題名は・・・、「やまとびと」であったことを付け加えておく。


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