~山の辺の道~

2009年11月5日(木)AM6時30分近鉄名古屋駅発、難波行き特急に乗車。
三重県に差し掛かったところで木曽三川に昇る朝日が眩しい。
途中名張駅で快速電車に乗り換える。
景色が変わったなって思えた瞬間、電車は奈良県へ。
大和八木まで普段から特急で一駅も止まることがなかったので、とても新鮮。
榛原駅までは座席についていたものの、犬養先生の著書に長谷寺を過ぎると忍阪が車窓からも確認できるとあったのをこの目で確認すべく、がらんとした電車の中であえて席を立ち、窓に顔を貼り付けてみていた。
すると明らかに「・・走りでの宜しき山の出で立ちの・・・」縦にも横にも美しい忍阪山(おさかやま・現外鎌山)が目の前に現れた。
なんという美しき山・・・。
感動で胸が高鳴った。
今回の旅のはじまりでもあった。
それにしても近鉄電車で過去何回ここを通った自分だろう。
往復を考えると朝に夕にと通過していたはずなのに。
それなのに、初めて見る山だった。
そんな胸の高まりを必死で抑えながら、桜井駅で下車。
今回ご一緒して下さるTさんご夫妻と合流。
まずは車で大神神社前へ。
大神神社は三輪山をご神体として本殿を持たない古代信仰の原型をとどめている社である。
拝殿から望む三つ鳥居だが、間近で見学参拝させていただくことができた。
三つ鳥居は三柱をあらわしているともいわれており、拝殿と禁足地を区切る珍しい三輪鳥居は現在国の重要文化財として守られている。
拝殿近くの展望所からみる景色はまさに国のまほろば。
早朝であったため薄く朝霧がかかった大和盆地はまるで1350年前に私たちをいざなってくれているようであった。
万葉集にも歌われている拝殿前の巳の神杉を通り過ぎいよいよ山の辺の道へ入り初瀬川を目指す。
ずっとずっと自分の足で確かめてみたかった。
三輪山の裾野を南北に続く山の辺の道は、平日ということもあり行き交う人は住民の方々くらい。
それがまたいい。
あっという間に金屋の石仏が左手にあった。
そこは想像していた以上に頑丈なコンクリート造りの建屋に覆われ、その中にはいにしえから庶民の祈りの対象となっていたであろう石仏が2体。
左が弥勒仏、右が釈迦如来といわれているそうだ。
線刻は描写が細かくそれは美しくもあり、またなぜかはかなくも感じた。
案内板によるといつの頃からまでは裏あたりにあった大木にもたれかかるように置いてあったとか。
建屋床下には無造作に置いてある阿蘇石で造られた石棺(赤色がかったほう)があり、こちらはかなり貴重なものであると古墳の専門家であるT氏から説明を受けた。
歩みを進めるにつれ、道路脇の民家のたたずまいがなかなか雰囲気のある町並みとなってきたところにずっとずっと心の中に描いていた海柘榴市があった。
海柘榴市は山の辺の道、初瀬道、磐余(いわれ)道、竹内街道へのびる横大路等主要な道路が集まる八十のちまたであった。また難波から初瀬川を辿って船便も通う古代の交通の要所であった。ここでひらかれたのが最古の市といわれる海柘榴市である。男女が歌を詠みかわす歌垣も行われた場所でもあった。

「紫は灰さすものそ海柘榴市の八十の巷(ちまた)に会へる子や誰」 巻12ー3101
「垂乳根(たらちね)の 母が呼ぶ名は 申さめど 道行く人を 誰と知りてか」巻12ー3102

意訳 男性:海柘榴市の八十のちまたで出会った君の名前は何というのだろうか?
意訳 女性:私の母親が名前を呼んでくれるならいざ知らず通りすがりのあなたに名前をお教えするわけにはいきませんわ。

古代より民謡として伝承されてきたと言われているこの2首。今ここでいにしえに時を戻せば、この場所で市が開かれ、大勢の人々が行き交う中あちらこちらでこうした歌垣がこだましていたかと思うだけでそこは閑散としたつばいち跡ではなくなっていた。
ここから更に歩みを進めて初瀬川へと出たかったのだが残念ながら初瀬川へとさしかかるところで工事のためやむなく迂回して初瀬川へ。
初瀬川にかかる橋の中央に立つと正面に忍阪山が見事な全容をみせてたたずんでいる。

「隠口の 泊瀬の山 青旗の 忍坂の山は走出(はしりで)の よろしき山の 出立(いでたち)の くはしき山ぞ あたらしき山の 荒れまく惜しも」巻13-3331
意訳:女性がすくっと立ったような上にも横にもすばらしい泊瀬の忍阪の山、その素晴らしい山がだんだん荒れていくのはとても残念なことです。
(挽歌に収められており、3330と3332と3首で歌形式となっている、特に3330の長歌後半で忍阪に葬られた亡き妻を歌っている)

忍阪を見ながら河川沿いを少し歩くと仏教伝来の地の石碑がたっていた。
538年に百済の聖明王の使いで訪れた使者が欽明天皇に金銅の釈迦如来像や経典,仏具などを献上するのにここに上陸したといわれている。
古代陸上、海上交通の要所であった八十のちまたの海柘榴市は、大和の中心であり、文化の中心でもあったことがうかがい知ることができた。
そしてここで振り返ると今歩いてきた三輪山が後方にみえ隠れする位置となった。

味酒(うまざけ) 三輪の山 あをによし 奈良の山の山の際()に い隠(かく)るまで 道の隈(くま) い積もるまでにつばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放(みさ)けむ山を 心なく雲の 隠さふべしや 巻1-17

三輪山を しかも隠すか 雲だにも 情こころあらなも 隠さふべしや 巻1-18
                               額田王

意訳:味酒三輪山、奈良の山々の間に見えなくなるまで、そして道の曲がり角ごとにいつまでもいつまでも私はみていたいのです。どうか心があるなら雲よ隠さないでいて下さい。

意訳:三輪山よ、そんなにも隠さないで、せめて雲だけでも心があるなら隠さないで下さい。私の心はここにあるの。お願い。

政治に翻弄され2人の兄弟、大海人皇子から天智天皇へと向かわねばならなかった額田王。明日香から近江京への遷都の際に読まれたこの句は、自分の心は明日香=大海人皇子にあると三輪山に重ねて歌っていたと思われる。定めに逆らえないもどかしさ、やるせなさを雲に心をつけて歌った額田王。
現代に重ねるなら、奈良に住みたい私が愛知へと帰らねばいけない心中とも重ねてとれるとするには大げさかな。
大和を離れるとき、自然とこの歌が頭の中を巡る。
 

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