~風早の浦~

「嘆きの霧」が完成したのが、今年の4月。
以降、風早への思いが日に日にふくらみ、どうしてもこの目で遣新羅使人が船泊まりした風早を感じたくなってしまった私はついに初夏に訪れることができた。
風早は現、広島県東広島市安芸津町風早である。
深い入り江となっているここ風早は、往時、大和で妻に別れを告げ難波津を出向した使人たちが瀬戸内海沿岸に何度か船を止めながら寄港した場所である。
今に生きる私たち、特に内陸に暮らす私にとっては、瀬戸内海というと穏やかな海を想像しがちだが、過去の楽曲「妹が結びし」の時代において瀬戸内といえば、海路の難所がいくつもあり、潮流の早いことでも有名だったようだ。
数年前、岡山から対岸香川県に船で渡ったことがある。
その折にはまさに潮目が浮き立ち、渦巻くまさに神の渡りを何カ所も目にしたことが思い返される。
フェリーも無い時代の船旅。
それは手漕ぎの船でただひたすら目的地目指して荒波の中を突き進んでいくしかないのであった。

さて、風早を訪れた私がまず向かったのが、風早の高台で風早の浦を見下ろす位置にある祝詞山八幡神社である。
ここの境内には風早で歌われた万葉集をモチーフにした障壁画がそびえ立っているのだ。
大和で夫を立ち尽くし見送る妻、新羅へとむかった夫が風早で妻の嘆きの息を、そして嘆きの霧を感じる瞬間が見事に障壁画となって表されている。
何でも還暦を向かえた地元の有志によって建立されたそうだ。
その発案者が祝詞山八幡神社の宮司、富永氏であった。
今回の旅でどうしてもこの富永氏からお話がきけないものかと事前に役場に問い合わせてみたところ、この5月に逝去されたことがわかった時は言葉にならず、あふれる涙を必死になってこらえ御礼をいって電話を切るのがのが精一杯だった。
文献に言葉として残ると富永氏の風早の風土を説いてみえる文言は、万葉を愛し、風早を愛して止まない富永氏の心そのものであったことを付け加えておくことにしよう。
さて、その障壁画の隣には万葉歌碑が佇む。

風早の浦に船泊りせし夜に作る歌二首
『わが故に 妹嘆くらし風早の浦の沖辺に 霧たなびけり(3615)』

『沖つ風 いたく吹きせば 吾妹子が嘆きの霧に 飽かましものを(3616)』

揮毫は地元の書家によるもので、中学生にも読めるようにとわかりやすい書体で丁寧に書かれていることが、万葉の心が風早に溶けていると感じた瞬間でもあった。
ここ祝詞山八幡神社には神楽殿がある。
風早の浦が一望できるすばらしいものである。
あたりを見渡してみたが、誰もいない。私だけ。
こんなすばらしいシュチュエーション。
靴を脱いで
•••••歌いました。風早の浦を遥か眼下に眺めながら。
もう途中は感無量で声にならず。
まさしく自己満足に浸っておりました。はい。
風土を感じ、そこで声に出して歌う。
歌い方は違えど犬養万葉の世界そのものだったように思います。
さて、祝詞山八幡神社を後にした私は次に、富永氏の文献に書かれていた風早の浦を一望できるビュースポットを探しに。
急な坂道を登ってく左右はみかんやビワ畑が広がっている。
ずいぶん登り、ほぼ頂上まできた時、ふりかえってみたらそこには、なんと、風早の浦が見事に広がっていた。
あの感動は今でも心に焼き付いている。
思わず「うわ~~~~~っ」と声を上げた私だった。
そこから山側の中腹に目をやると、大の字焼きでなく「万」の字焼きの痕跡が。
しっかりと「万」が読める。万葉集が詠まれた地だから「万」。
歴史は浅く平成2年にはじまったようだが、万葉の町としての町民の心意気が形となったことを知り、地元民にこれだけ大切にされている万葉故地、「風早」の現代に生きる万葉の心を感じることができ、どこかセンチメンタルになっている私であった。
宿泊先を安芸津にとった私は、早めの夕食を済ませいよいよ夜霧を待つ事にする。天気は晴れ。対岸の島影もよくみえる。
水平線に沈む美しすぎる夕日を見送り、こんな調子良く霧がでるはずもないかとあきらめていた。
ついに落日。
だんだんあたりは暮れなずむ。
すると、今迄見えていた島影だったが、だんだん下の方から白い霧に包まれているではないか!
まさか!
すると時間の経過とともにあっと言う間に島影は山の稜線がかすかに見える程度で霧に包まれていった。
まさに
「我が故(ゆえ)に妹嘆くらし 風早の浦の沖辺に 霧たなびけり」(万巻十五 三六一五)
を見た瞬間であった。

こうしてすばらしい感動に包まれ、歌を感じ、風土を感じ、遣新羅使人の心を感じた私は無事に翌日帰途についたのであった。

後日ここで詠まれた歌について語りたいと思います。



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