斎明天皇と建王

今回は斎明天皇と孫である建王の墓所についての考察です。斎明天皇が建王の死を偲んで詠んだ句に「今城(いまき)なる 小山(をむれ)が上に雲だにも 著(しる)しく立たば何か嘆かむ」があり、私はずっと万葉集の中の一句だと思っていたのですが実は日本書紀に書かれている句なんですね。ただ犬養孝さんも著書「万葉の旅」にも取り上げられているほど有名な句でもあり今回のテーマとしました。ところで風香さんもこの句がお気に入りと見えてご自身のブログにも書かれていますので併せてごらんいただければと思います。

http://blog.goo.ne.jp/taketi2tag3/e/f531620522a41fb34949ac5d4dc296d0

斎明天皇の息子の天智天皇には遠智娘との間に三人の子供がいて長女は大田皇女、次女がのちの持統天皇、そして長男が今回取り上げた建王ですが生まれながらにして口がきけず不憫に思った祖母の斎明天皇はことのほか建王を可愛がったようですが、斎明4年(658年)にわずか8歳で没してしまうのです。「今城谷上」に殯宮をたて収めた際に斎明天皇は自分がなくなった時には建王と合葬するように命じています。(日本書紀6585月条)現在、斎明天皇の御陵は高取町車木にあり斎明天皇、間人皇女、建王が合葬されている事になっています。

http://74589594.at.webry.info/201007/article_6.html

しかし日本書紀667年春2月条には斎明天皇と娘の間人皇女が合葬され斎明陵の前に大田皇女も葬られたとあり、この時点ですでに建王の名前はきえているのです

ところで以前から斎明陵ではないかと言われていた牽牛子塚古墳が2010年の発掘調査で当時の天皇陵の特徴である八角墳であることが判明し、築造時期、墳丘構造、埋葬施設等から研究者の間では牽牛子塚古墳が真の斎明陵とする見解が相次ぎ確定したかのような記事が乱れ飛んだのですが実は弱みがひとつだけあったのです。それは前にあるはずの大田皇女の墳墓が見つかっていないからでした。

しかし同年の12月になんと大田皇女の墳墓と思われる古墳が牽牛子塚古墳の前から発見され日本書紀の記述を裏付ける大発見となったのです。ここではそれらの発掘成果より以降、牽牛子塚古墳=斎明天皇・間人皇女合葬墓として考察をすすめまいります。

では建王はどこに眠っているんでしょうか?言える事は建王を弔うために今城谷上で殯宮(もがりのみや)を立てたと言う記述だけで実際に建王が斎明天皇と合葬されたとする文献資料は一切ないのです。この牽牛子塚古墳は構造上から最初から合葬墓を意識して作られていますが2室はほぼ同形同大の大きさで当時の皇族の子供の墳墓はどのようなものであったのかはわからないのですが8歳の子供のためとは考えにくく、この牽牛子塚古墳は文献どおり、やはり斎明天皇と間人皇女の合葬墓と考えざるをえません。建王の墳墓の手がかりは掴めませんが想像逞しく考えるならば当初から斎明天皇とは合葬されなかったか!あるいは斎明天皇の初葬墓(研究者の間では岩屋山古墳や東西の鬼の雪隠、俎板古墳が有力視されています。)までは合葬されていたが何らかの理由で牽牛子塚古墳には改葬されなかった可能性もあるかもしれません。(補足)元々鬼の雪隠、俎板古墳は1墳丘2石槨の古墳で斎明陵(牽牛子塚古墳)に改葬される際に壊された可能性もあるようです。だとすれば2石槨の内、規模的に大きい西石槨が斎明天皇の初葬墓で現在橿原考古学研究所の庭に何気なしに置かれている鬼の雪隠、俎板(東槨)が実は建王の墳墓とも考えられます。

最後に建王の殯塚と言われている古墳を紹介しておきましょう。吉野郡大淀町今木にある保久良(ほくら)古墳で1894年(明治27年)建王殯塚に比定され(現在は無指定)現在も村人たちの手によって大切に守られています。ただ築造年代が6世紀後半であり建王の没年(658年)とは合致しません。参考までに(私のブログです。

 http://74589594.at.webry.info/201006/article_4.html

 

とこおとめは食を通じて(株)八葉水産さんを応援しています。