束明神古墳(高市郡高取町佐田)

今回は草壁皇子の墳墓の可能性の高い奈良県高市郡高取町にある束明神(つかみょうじん)古墳です。この古墳のある高取町は古代飛鳥地域の一部で現在の明日香村だけが古代の飛鳥ではないという事を頭に置いて一読願えればと思います。

 

この古墳は1984年から橿原考古学研究所の河上邦彦氏を中心に発掘調査された古墳です。今ではもう、ほとんど忘れ去られた古墳になっていますが発掘当初は全国紙にTOP記事として取り扱われ現地説明会には未だに記録となっている9000人(当時の高取町の人口と同じ)が訪れ調査中に訪れた見学者は約50000人で恐らく見学会や説明会での記録であろうと言われています。小生もその一人ですが、今までに見たこともないようなジグソーパズルのような石槨を目にしたときの衝撃はいまも強烈に残っています。

 

この古墳は地元では古くから草壁皇子の墓であるとの伝承があり「古墳と被葬者」というテーマで学術調査された初めての古墳でもあります。発掘調査が進むにつれてそれを裏付けるような成果が次々に現れた為、新聞各紙に「草壁皇子の墳墓発見!!」いう記事が乱れ飛び橿原考古学研究所もそれを肯定するような見解であった為、一目、草壁皇子の墳墓を見たいという人々でごった返したのです。

 

では何故この墳墓が本当に草壁皇子の墳墓と言えるのかについて考えてみたいと思います。もちろん墓誌が出ているわけではないので状況証拠しかありませんが、かなりの確率でそう思える状況です。

日本書紀に持統3(689)4月に崩御したことを記しているが墓所は書かれていません。しかし万葉集には草壁皇子(日並皇子)が亡くなった時に彼の舎人が詠んだ挽歌が23首残されていて、その中から墓の場所が わかるものが何首かあるのです (すべて巻二です)

一七七 朝日照る佐太の岡辺に群れいつつ吾が哭く涙やむ時もなし

一七九 橘の島の宮には飽かねども佐田の岡べに侍宿しに行く

一八七 由縁もなき佐太の岡辺に反りいば島の御はしに誰が住まはむ

一九二 朝日照る佐太の岡辺に鳴く鳥の夜なきかはらふこの年ごろを

一七四 外に見し檀の岡も君座せば常の御門と侍宿するかも

一八二 鳥ぐらたし飼ひし鷹の児巣立ちなば檀の岡にとびかえり来ぬ

 

以上の事から墳墓は佐田(佐太)か、あるいは檀の岡(まゆみのおか)にあると考えられます。佐太と檀の岡の関係は定かではありませんが研究者は佐太(現在の佐田)は檀の岡(現在の真弓の丘)の一部を指すものとして捉えられています。また日本書紀にも草壁皇子の墳墓を推定させる記載があります。それは765年に称徳天皇が紀伊に行幸した時の事を次のように書いています。「・・・・是日、大和国高市郡小治田の宮に到り給ふ。壬申(14)車駕。大原長岡を巡歴りて、明日香川に臨みて還り給ふ。癸酉(15日)、檀の山陵(草壁)を過ぎ給ふ時陪従の百官に詔して悉に下馬さしめ、儀衛其の旗織を巻く、・・・」とあり草壁皇子の墓のそばに来たとき敬意を表した記事がありここでも檀の山稜として出てくるのですこの行幸のルートは後に巨勢道や高野街道と呼ばれ古代には紀伊に向かうメインルートである「紀路」として知られる道なのです。したがって「紀路」を意識して紀路から見える所に草壁皇子の墳墓を造営したものと推察されます。

 

この束明神古墳は佐田地区の春日神社境内にありますがこの地区では昔からこの古墳を草壁皇子の墓として祀ってきたという伝承が残っています。しかし公式的には定まっていなかったようで幕末頃に不明になっている岡宮天皇(草壁)の御陵を指定するための事前調査があり、もしこの束明神古墳が指定されれば村全体が立ち退きになるかも知れないとの噂が流れ村人たちは塚の一部を破壊して古墳とわからないようにし代わりにそれらしき別の場所(現在宮内庁が治定している岡宮天皇陵)に土盛りしたという伝承も残っています。これらの事から草壁皇子の墳墓は佐田(佐太)にあると思われます。

 

以上は文献や伝承による考察ですが実際、発掘された事からわかる事はあったのでしょうか?

当初は小さな古墳と思われていましたが、なんとこの時代に天皇あるいはそれに匹敵する人物にしか造ることが出来ない八角形墳の可能性が出てきたのです。対角長が36mもある当時としては最大級の規模で石槨も50㎝大の凝灰岩の切石をなんと黄金分割を使って作った精巧な造りで当時の最高の技術を駆使して作られた古墳である事が判明したのです。規模も高松塚古墳やマルコ山古墳に対し面積で2倍、体積で4倍で当時の古墳としては天武陵に次ぐ規模を誇ります。これらの事に加え石槨の下部に使われた石材の一部が天武陵の葺石に使われている石材と同種同大の可能性が高く天武陵の造営中に草壁皇子が亡くなった為、一時同時並行で二つの墳墓が作られていた時期があり天武陵の石材の一部が草壁皇子の石槨に転用された可能性は否定できません。以上の事から束明神古墳は草壁皇子の墳墓の可能性が極めて高いと言えるでしょう。ちなみにこの佐田地区にはこの規模の古墳は他には存在しません。今は訪れる人も殆どなくひっそりと春日神社の片隅で草壁皇子は眠っているのです。

 

※スライドショーの3枚目の石槨写真のみ復元したものです。

 現在橿原考古学研究所に置かれています。

 

 

 

 

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