粟原寺(桜井市粟原)

万葉集と考古学の2回目は、奈良県桜井市粟原にある粟原寺跡を取り上げました。今は三重塔の心礎やその他の礎石だけが散在している廃寺ですが国指定史跡になっています。その理由として、この寺の由緒が現在は多武峯の談山神社所蔵となっている粟原寺の三重塔の相輪の一部の伏鉢(ふくばち)の表面に刻まれている銘文からわかるのです。(普通は判りにくい寺の縁起がこの伏鉢から詳細にわかり古代の金石文の重要な第一級の資料で国宝に指定されています。)

 

銘文の中味は天武天皇の時代に中臣朝臣大嶋が草壁皇子をしのび造営を発願したが,こころざし半ばで亡くなったため比売朝臣額田が694年から715年まで、なんと22年もの歳月をかけて、この地に金堂を建設、続いて釈迦丈六仏を安置し更に三重塔を整え、草壁皇子や中臣朝臣大嶋の冥福と七世の先霊たちの仏果を得んことを願うとしるされているのです。

 

では、なぜこの粟原寺と万葉集が関係するのでしょうか?それは比売朝臣額田があの万葉歌人、額田王ではないかと言われている事にあるのです。ただ確実な決め手があるわけではなく「額田」という名前だけで同一人物と決める事は苦しいのですが、否定する材料もないのです。仮に額田王だとすると造営が終わった頃には推定で83歳ぐらいになり当時としてはかなりの長寿となりますが年齢的には一応のつじつまは合うのです。但し草壁皇子との関係がよくわかりませんが積極的に額田王説をとると夫である?発願者の中臣朝臣大嶋は主に持統天皇時代に活躍した実力者であり、そのあたりから、最愛の息子、草壁を亡くした持統と最愛の娘、十市皇女を亡くした額田王の接点があったとしても不思議ではありません。

この額田王の墳墓はどこにあるのか?記録もなく何もわかっていません。ただ場所的にはもし終焉の地が粟原寺だとすれば粟原や一人娘の十市皇女が眠る赤穂(現在の桜井市赤尾)もしくは姉の鏡王女が眠り額田部氏とのかかわりもある忍坂(桜井市忍阪)辺りが有力な候補地と考えられます。ところで古墳というのは3世紀代からおよそ8世紀の初めくらいまでの間に作られているのですが、墓制は時代ごとにそれぞれ特徴があります。この額田王が亡くなったであろう8世紀の初めは古墳時代で言えば古墳時代の終末期で古墳が作られなくなる過渡期に相当し埋葬施設等も大きく変化します。石室は7世紀後半辺りからそれまでの花崗岩系の堅い石から凝灰岩という加工しやすい軟石にかわり埋葬の形態も土葬→改葬→火葬に変わって行く時期に当たります。以上の事を踏まえ先ほどあげた場所で合致するような古墳があるのか調べてみたのですが奈良時代の古墳は、これらの場所では、ほとんど見つかっていません。結論から言って現在奈良県遺跡地図に載っている古墳の中で該当するような墳墓は残念ながら見つかりませんでした。但し正式な発掘調査が行われているのは、ほんの一部です。額田王は亡くなったあと火葬され、骨蔵器に入れられ粟原谷か忍阪谷の赤穂が見える山裾にひっそりと眠っているに違いないと思っています。静かに・・   

                            by とし坊

万葉集 巻二 一一二 額田王

 

古(いにしえ)に 恋ふらむ鳥は霍公鳥 けだしや鳴きし 吾が念(も)へる如(ごと)

 

原文)額田王奉 和歌一首

   古尓 戀良武鳥者 霍公鳥 盖哉鳴之 吾念流碁騰                    

読み下し文)

   額田王の和(こた)へ奉(まつ)れる歌一首

   いにしえに こふらむとりはほととぎす けだしやなきし わがもへるごと

 

風香意訳

昔を懐かしがって鳴いている鳥の名はほととぎす。まるで私の心の内のように何度も何度も鳴いているわ

 

額田王の晩年の句といわれているこの句は、弓削皇子の「古(いにしえ)に 恋ふる鳥かも弓絃葉の 御井の上より鳴き渡りゆく」(万葉集 巻二 一一一)の句に応えた歌となっています。

弓削皇子:「昔を懐かしがって弓絃葉の木の繁る井戸の上を鳴いて行くなの鳥の名はなんというのだろうか」

 

一見何の変哲もない鳥問いのやりとりに聞こえるこの句ですが、実はお互いが中国に伝わる蜀王の伝説の漢詩を勉強してのやりとりだったのではと言われています。額田王といえば、皇族ではない豪族の娘であったにもかかわらず、宮廷一の才女であり一流の万葉歌人として名を馳せた人です。そんな華やかな姿、そして素晴らしい歌を残している彼女ですが、意外にも晩年を知る手がかりはこの句ぐらいしかなく、ここ粟原寺で詠われたともいわれています。一方弓削皇子は、天武天皇の皇子で、若かりし頃には、文武天皇の皇后であり異母姉妹であった紀皇女と密通していたのではとささやかれる人でありました。額田王はこの句を読んだ年は、すでに70歳は有に超えており、静かな時の流れの中で愛しい人たちのはかなき命を見つめながらこの句を読んだのでしょう。また弓削皇子は紀皇女が亡くなった後に読まれた歌であるとされていることを思うと、時鳥(ほととぎす)、不如帰、蜀魂とも書かれるホトトギスの鳥を介して二人がお互いにそれぞれの思いを重ね合わせていたのではないでしょうか。

弓絃葉は、常緑高木で、新しい葉が出てくると、古い葉はそれを知って自ら葉を落とすという何とも物悲しい樹木で、よく公園でもみかけることができます。

弓絃葉とほととぎす。

晩年の額田王の姿が偲ばれます。

尚、晩年の額田王の念じ仏だとされているものが、奈良県桜井市忍阪にある日本最古の石仏である「伝薬師三尊石仏」です。

この石仏を一目見れば、きっとあなたも額田王の心にそっと触れることができるかもしれません。

 

 

                            by 風香

 

 

 

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