脇本遺跡

 

2012619日に橿原考古学研究所から脇本遺跡(17-2次,18-1次)の調査成果について報道発表がありましたがメディアには、あまり大きく取り上げられることもなく更には現地説明会もなくすこし寂しい気もしますが万葉集に関心のある方にとっては気になるニュースかと思います。 

 

この脇本遺跡は奈良県桜井市脇本にあります。飛鳥に宮が移るまで奈良盆地の東南部に当る三輪山の西南麓から香具山あたり一帯は、大王(天皇)や皇后の宮が十三もあったと伝えられ大和王権の中心地域でした。しかし伝承地は、ほとんど調査されることなく今日に至っていますが、脇本遺跡に限っては過去18次にわたる調査が橿原考古学研究所と桜井市教育委員会で行われ5世紀後半、6世紀後半、7世紀後半の大型建物跡などが発見されています。

 

5世紀のものについては→雄略天皇の泊瀬(はつせ)朝倉宮跡

6世紀については→欽明朝の行宮の泊瀬列城宮(なみき)跡

7世紀のものについては→大伯皇女の斎宮跡

 

の可能性が指摘されてきました。この地は奈良盆地の東南部にあり三輪山や、万葉集で名高い忍坂山(外鎌山)などの山で三方を囲まれ西側のみ開けた初瀬谷という場所で、すぐ近くには王権の武器庫があったと言われる忍阪や軍事氏族の大伴氏の本拠地もあり、水陸の交通の要所としても大和と東国を結ぶ重要な位置にあります。5世紀後半にこの朝倉宮にいた雄略天皇は万葉集巻1の巻頭歌でも知られる第21代の天皇(当時は大王と言う名前で呼ばれた)です。

この歌は風香さんも自身の3枚目のアルバム「記紀・万葉さくらい」の最初の曲として取り上げています。 ( 試聴盤で途中までですがお聴きください。)

 

雄略天皇の泊瀬朝倉宮跡は他にも2ヶ所ほど候補地があるものの、上岩坂という伝承地は標高280mの位置で北斜面の狭い場所、もうひとつは黒崎の「天の森」という場所で初瀬谷を望むには絶好の場所にありますがここも南斜面の宮跡にしては余りにも狭く、土器片等も見つかっていないのに対して脇本遺跡では雄略の時代と合致する土器片や約30センチの巨大な柱穴跡が見つかっていることから研究者の間では雄略天皇泊瀬朝倉宮跡の最有力な候補地といわれています。

 

今回、報告された7世紀の大型建物跡は日本書紀に天武天皇の娘・大伯皇女(661~701年)が673年に泊瀬斎宮(はつせのいつきのみや)身を清め翌年伊勢神宮に斎王としてむかったという記述がありますが、その斎宮の一部の可能性が高いといわれています彼女は父は天武天皇で母は天智天皇の娘、大田皇女で,大伯が6歳の時に亡くなりました。673年に斎王に命じられ,13~26歳までの間、斎王として仕え686年天武の死に伴い任を解かれ,前後して弟の大津皇子が謀反を企てたという事で死に追いやられたのです。大伯皇女の歌は6首あり,事件の直前密かに伊勢にきた大津皇子を見送る歌2首,大津の処刑後上京したときの2首,大津の屍を二上山へ移葬する時の2首と,すべて大津皇子にかかわって詠まれています。

 

今回の発掘調査で直径4050センチの掘っ立て柱が立っていたとみられる柱穴4個が東西9、南北3mにわたって出土。これまでの調査で見つかった柱穴と合わせ、東西19m、南北8大型建物跡の南西部分と判明しました。過去の調査で、105m西側でも7世紀後半の柱列が出土しており、一帯に複数の大型建物が整然と並ぶ宮殿級の施設(斎宮跡の一部の可能性大)だったとみられています。古代の幹線道路に近いことなどから、調査地の周辺にあった可能性が高いとみられとぃます

 

早く確定してもらいたいところですが、どの時期の遺構も未だ核心部分には当っておらず中心部分は現在居住地となっている脇本の集落の中にある可能性が高く今後も地道な調査での全容解明を期待したいと思います。 

次の動画は2011年8月の第17次調査の現地説明会風景です。

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