舒明天皇陵(段ノ塚古墳)

今回は前回ご紹介しました斎明(皇極)天皇のご主人であり天智天皇(中大兄皇子)や天武天皇(大海人皇子)らの父親にあたる舒明天皇です。万葉集の巻頭の句は雄略天皇(第21代)で続いて2首目がこの舒明天皇(第34代)の「やまとには むらやまあれど・・」という歌なのです。しかし雄略と舒明では、およそ1世紀の空白があり舒明以後は継続的に紹介されている事からも万葉集は実質的には舒明天皇の時代から始まったと言えるでしょう。折口信夫は万葉集は舒明天皇の皇統譜で編成されたと記しており、舒明天皇はいわば万葉集の父親的な存在とも言えるでしょう。

 

舒明天皇は敏達天皇の孫に当たる人で父は押坂彦人大兄皇子、母は糠手姫皇女(田村皇女)で推古天皇が628年になくなった後、蘇我蝦夷の後ろ盾で即位し在位中は第一回目の遣唐使の派遣、百済大寺の造営等内外多事であったようです。日本書紀によると舒明天皇は641年に百済宮で崩御し642年に滑谷岡に葬られ643年に押坂陵(おしさか)に改葬されたとあります。

 

押坂とは現在の行政区では桜井市忍阪(おっさか)であり、古墳の多い地域ではありますが、これだけの規模を持つ同時代の古墳は見当たらず現在宮内庁が治定している舒明天皇陵である可能性が極めて高いと研究者の間では定説となっています。

 

それを裏付ける材料として①この舒明陵を初めとして以後八角墳が天皇や皇太子に限定して造営されている事にあります。すなわち、舒明陵→斎明陵(牽牛子塚古墳)→天智天皇陵→天武・持統合葬陵→草壁皇子(束明神古墳)→文武天皇陵(中尾山古墳)と続きます。従って天皇陵の可能性が高いと言えます。 ②延喜式によると母親の田村皇女は664年になくなり、その墓は舒明陵内とされています。文久年間(1861~64)の「山陵考」によると陵の南面が崩壊し石室の一部が露出した際、村人が密かに内部を窺ったところ石室内に2基の石棺が置かれ奥の棺(舒明天皇?)は横に、前の棺(母親の田村皇女)は縦に置かれていたという伝聞が残されていて合葬墳であることが窺い知れます。③先にも述べましたように、書記に記されている陵の場所とされる忍坂にはこの古墳を置いてほかには考えられません。以上のことより舒明天皇は父親である押坂彦人大兄皇子が幼年時代をすごしたであろう忍坂の地で静かに眠っているのではないかと考えられます。

 

舒明天皇陵につきましてはブログにも書いています。内容一部重複しますがよろしければどうぞ!→こちらから

 

万葉集巻1−2

(原文)

天皇登香具山望國之時御製歌


山常庭 村山有等 取與呂布 天乃香具山 騰立 國見乎為者 國原波 煙立龍 海原波 加萬目立多都 怜A國曽 蜻嶋 八間跡能國者

 

(読み下し文)

天皇(すみらみこと)、香具山に登りて望国(くに)を望(み)たまふ時の御製歌


大和(やまと)には 郡山(むらやま)あれど とりよろふ 天(あま)の香具山(かぐやま) 登り立ち 国見(くにみ)をすれば 国原(くにはら)は 煙(けぶり)立つ立つ 海原(うなはら)は 鷗(かまめ)立つ立つ うまし国そ 蜻蛉島(あきづしま) 大和の国は

 

(風香意訳)

大和には多くの山々があるが、その中でもひときわ神々しい天の香具山、その山頂に立って国見をすれば私の治める国々は煙が立ち上っている。また、海原には、鴎が飛び交っている。そう、この素晴らしい国、あきず島、大和の国は。

(海原=点在する池を海に見立て、かもめはその池を飛び交う水鳥を見立てたもの。また煙の解釈については、かまどの煙と捉える説もあるが、大和を訪ねると水蒸気がまさに煙となって大和国原を立ち上っていく情景に出逢う事ができる。古来においては大和の気温も今以上に気温差のある風土だったと思うので、私個人としてはそんな様子を舒明天皇が目にして歌に詠んだのではなかろうかと思う)

 

 

万葉集巻8−1511

(原文)

岡本天皇御製歌一首

暮去者 小倉乃山爾 鳴鹿者 今夜波不鳴 寐宿家良思母


(読み下し文)

岡本天皇の御製歌一首

夕されば小倉の山に鳴く鹿は今夜は鳴かず寐(い)ねにけらしも

 

(風香意訳)

夕方になると小倉の山に鳴く鹿なのに、今夜は鳴いていない。愛しい妻に逢う事ができたので、共に寝てしまったのだろうか。

(小倉山については諸説あるが、桜井市忍阪に字名で小倉谷というのがある。舒明天皇陵が忍阪にあることを考えると忍阪にある小倉谷とするのが無理のない解釈となるのではないだろうか。余談だが、『記紀・万葉さくらい』DVDアルバムへの収録曲「文に麗はし」(忍阪イメージソング)の歌詞にもこの万葉歌を意識して織り込んである)

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