鏡女王墓(桜井市忍阪)

舒明天皇(34代)とその母親の糖手姫皇女(あらてひめのみこ)の母子を合葬した段の塚古墳の前の細い道の横を流れるせせらぎの傍に犬養孝氏、揮毫の鏡王女の歌碑があります。万葉歌碑は数多くありますが、これほど歌詞と風土がピッタリくる場所もないと言われている歌碑です。わずか三十一文字の中に、内に秘めた女心を見事に詠いあげています。この歌碑の辺りから視界が一気にひろがり鏡女王押坂墓が一望できるのです。まさにここは「万葉の世界」への入口で空気さえ違う感じがしてくるのです。

王女の墓には以前19本の松がそびえていてそれは素晴らしい景観だったようです。(写真家の入江泰吉氏の写真は特に有名です)しかしながらこの松も虫害で今はなく代わりに杉が植わっていますが、年月を重ね今は完全に古墳と同化し、いい雰囲気になっています。

前置きが長くなりました。肝心の古墳の紹介ですが発掘調査がされてないので詳細は全く不明ですが奈良県教育委員会発行の「奈良遺跡地図」には鏡皇女陵(15A-76)円墳、径15mとだけ記載されており古墳であるという事には間違いないようです。一見、宮内庁の管轄かと思う雰囲気をかもしだしています。鏡王女は、はじめ天武天皇のお妃でしたが後に藤原鎌足の正室となった関係で今は談山神社の管理地となっているのです。

日本書記によれば鏡王女は天武12年(683年)に亡くなっていることから古墳時代で言えば終末期(7世紀)の墳墓であるはずです。大和の古墳では6世紀後半に築造された見瀬丸山古墳や欽明陵を最後に前方後円墳は作られなくなります。墳丘規模は縮小され方墳や円墳となり石室そのものは石舞台古墳のように一時的に巨大化しますが646年(大化2年)に出された大化薄葬令以降は次第に石室規模も小さくなっていくのです。

終末期の古墳の特徴としては①古墳の立地に風水思想が入り込む②7世紀中頃からは舒明天皇をはじめとして大王クラスに限って新たに八角墳をもつ古墳が築かれ始める。③石材に凝灰岩を使った石棺を大きくしただけのような横口式石槨が出現する等の特徴があります。この鏡女王墓は平安時代前期に編纂された「延喜諸陵式」には舒明天皇の領域内にあると記録されていますがいまひとつ舒明天皇との関係が明確でなく埋葬施設も未調査で築造年代を特定する材料がないのですが立地場所は忍坂山(外鎌山)の南斜面の小さな支尾根の突端に作られており風水思想に基づいた終末期古墳の特徴をそなえています。また、この忍坂の地は古くから王権とのつながりが深く鏡王女の墓があってもなんら違和感のない土地柄であり、なんと言ってもこの古墳の雰囲気がつつましやかな鏡王女に相応しく今日も静かに忍阪の王家の谷(地元では奥の谷と呼ぶ)に眠っておられます。

万葉集 巻二 九二 鏡王女

 

    原文)

  鏡王女奉 和御歌一首

  秋山乃 樹下隠 逝水乃 吾許曽益目 御念従者

 

読み下し文)

 鏡王女(かがみのおほきみ)の和(こた)へ奉(まつ)れる御歌一首

 秋山の樹の下隠り逝く水の 吾こそ益さめ 御念よりは

(あきやまのこのしたがくりゆくみずの われこそまさめ みおもひよりは)

 

風香意訳

秋山の樹の下を深く静かに流れる山清水のように、あなたが思っている以上に私はあなたのことを深く思っています。(この山清水は私の心そのものなのです)

 

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