鳥谷口古墳(葛城市染野)

奈良県葛城市にある中将姫伝説で有名な当麻寺(たいまでら)と石光寺(しゃっこうじ)の間の道を二上山の登山口に向かって上っていくと途中に大池という大きな溜池があり1983年に、この溜池の堤の改修工事で二上山麓の南斜面を採土中、偶然に終末期の古墳が発見されました。古墳は見つかった地名から鳥谷口古墳(とりたにぐち)と名づけられました。近辺に、この時代の古墳は無く独立した墳墓と思われます。

しかし見つかった時には土取りで既に墳丘部の南半分が堀削され埋葬部の横口式石槨の天井石の一部と南側の側石が露出した痛々しい状態でした。この時点でやっと県に連絡が入り橿原考古学研究所が中心となり緊急調査が行われたのです。特異な古墳ということもあり更に1985年にも二次調査が実施されました。しかしながら調査終了後は他所に移築される予定だったのです。これを問題視した河上邦彦氏はA新聞社の記者を呼び以下のような記事を書かせました。タイトルは忘れましたが恐らく「大津皇子の墓、発見か?」と言うような感じで全国版に掲載され大きな話題を呼び結局、当時の当麻町長の英断で現地での保存が決まり今日に至っているわけです。

ところで大津皇子の宮内庁治定の墳墓は二上山の雄岳の頂上にあるのです。しかしながら、考古学者の多く(殆どか?)は、この時代の古墳は丘陵の南斜面に作られることが多く山の頂上に造る事はありえないし他にも例がないのです。この場所に決められた幕末の頃、恐らく大伯皇女の歌から単純に二上山の頂上に決められたと思われますが何の根拠もなく古墳であるかどうかもわからないのです。しかしながらこの鳥谷口古墳は確実とまでは言えないにしろ大津皇子の墳墓の可能性が下記の理由から大いに考えられるのです。

 

・万葉集に「うつそみの人にある我れや明日よりは二上山を弟背と我が見む」大伯皇女 がありますが「もう今はいない弟をこれからは二上山と思ってすごそう」と言う意味で、この歌の前文に弟の屍を二上山に移し葬る時に嘆き悲しんで作った歌とあり二上山周辺に大津皇子の墳墓があり、しかも改葬墓の可能性を示唆しているのではと考えられるのです。

 

・大津皇子は罪人扱いされてるので、そんな大きな古墳ではないと思われますがこの古墳の墳丘規模は7.2m(唐尺の25尺、ちなみに草壁皇子の墳墓と思われる束明神古墳は100尺)の方墳で当時の墓制では最低の規模である。しかしながら埋葬施設は凝灰岩を使用した横口式石槨(組合せ式家型石棺状)で一応それなりの処遇はされてはいるが石材として組合式家型石棺の部材が使われており、なんと天井部と北側面については石棺の蓋石が流用されており謀反のかどで捕まえられた大津皇子の急ごしらえの墳墓じゃないかと見方もあるのです。また石槨の規模も内法が長さ158cm、幅60cm、高さ70cmの小空間で改葬墓の可能性が高いのです。

・古墳の存在する地域一帯は染野(しめの)と呼ばれる場所で、これは古代の標野(しめの)の名残でこの周辺の地域は皇室の管理下の土地だった可能性があり、ここに墳墓を造る事が許された可能性があるのです。

・調査で発見された遺物は須恵器、土師器だけですが7世紀後半から末のものと推定され古墳のつくられた時期と大津皇子の死亡時期が一致する事も更にロマンがかきたてられます。

                          by とし坊

万葉集 巻二 一六五

 

原文)

大津皇子の屍(しかばね)を葛城の二上山に移し葬りし時に、大来皇女の哀しび傷みて作りませる御歌二首

 

宇都曽見乃 人尒有吾哉 従明日者 二上山乎 弟世登吾将見

 

読み下し文)

うつそみの 人にあるわれや 明日よりは 二上山を 弟世(いろせ)とわが見む

 

風香意訳)

現世に生きる私は、明日から愛しい弟の眠る二上山をあなたそのものと思って見る事にするわ。

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