photo by 風香

「嘆きの霧」

 万葉集巻十五にある遣新羅使人の歌です。新羅使人の歌群145首の中からの4首です。
 万葉集目録の原文は次のようです。
  天平八年丙子夏六月、使を新羅の国に遣はす時に、使人等、おのもおのを別れを悲しびて贈答し、また海路の上にして旅を慟(いた)みして思ひを陳(の)べて作る歌
とあります。
今回選んだ4首は、新羅へとむかう夫と大和で待つ妻との心の嘆きを歌っているものです
 日本書紀によると、天平八年(736年)第二十三次の遣新羅使人たちは二月二十七日に拝命、四月十七日に平城宮に拝朝。そして古典全集仮定によると六月一日に難波を出立ち。六月十日頃には今回の歌がよまれた広島県の風早の浦で船泊りしたと考えられます。
 往時、大和から大阪難波津へと向かうのは、一番道が平坦であった龍田越えでした。そして難波津から新羅への海路は瀬戸内海を通ったことが、どの時代の旅の歌をとってもその歌が瀬戸内沿岸に見られることから明らかです。
 さて、拝朝後、ついに大和の妻との別れの朝を迎えます。そして妻は夫に歌を送ります。
「君が行く 海辺の宿に霧立たば 吾(あ)が立ち嘆く 息と知りませ」
 (あなたが旅行く、海辺の宿に霧が立ったなら、私が門に出て立ち出てはお慕いして嘆く息だと思って下さいね)
この句を読んで深い感動を覚えました。1300年前の言葉とは思えないほど、現代に生きる私たちにも痛いほどに心が伝わってくると思いませんか。白い霧は夫を思う妻のため息だというんです。これから夫が向かう海辺、どこにいても私を感じて下さいという妻の心そのものだと深い感銘を受けました。
その句を受けて、今度は夫が妻に送ります。
「秋さらば 相見むものを何しかも 霧に立つべく 嘆きしまさむ」
 (秋になったら、必ず逢えるのだ。なのにどうして霧となって立ち込めるほどに嘆かれるのか)
 使節団は第23次。従来の遣新羅の通例からして最低でも往復に6~7ヶ月かかっていたことがわかっていたはず。なのに夏6月に出発してわずか2~3ヶ月(季節は秋となる)で戻れるはずがないことを承知で夫は不安な妻の心を、そして自らの恐怖を抑えるためにあえて秋になったらと安心させたようです。またこの句には夫が妻に対して敬語を使っているという万葉集中でも貴重な文例となっているところに、妻を思う夫の深い想いやりを感じずにはいられません。
 そして多くの海路の難所である神の渡りを越えて、広島県は現、安芸津町にある風早の浦までやってきました。今日はここで船泊まりです。沖に目をやると真っ白な霧がたなびいてきました。
そこで夫はまさに妻の心を感じます。
「我が故(ゆえ)に 妹嘆くらし風早の浦の沖辺に 霧たなびけり」 
 (私が元であの子がため息をついているらしい。ここ風早の浦の沖辺には霧が一面に立ち込めている)
この歌を読み解くのに、広島県にお住まいのご学友の方のお力添えを頂き、風早の霧についてお調べいただきましたところ、あたり前のようなんですが心に響く漁師さんの言葉を聞くことができ胸が高鳴りました。
「海上に霧がでたら、真っ白で何もみえないんですよ」と。
へえ、それがどうしたの?と思わないで下さいね。
これはまさに真っ白な霧に包まれるほどに他には何もみえない。心をすっぽりと包んでしまう嘆きの霧だということではないでしょうか。夫は自分自身であるがゆえに妻を嘆かせて悲しませてしまっていることを胸が張り裂けんばかりにこの霧に妻への想いを馳せていたんでしょう。更に夫はここ、風の強く早く吹く風早の風土を感じてこう続けます。
「沖つ風 いたく吹きせば吾妹子(わぎもこ)が 嘆きの霧に飽かましものを」
 (沖から吹く風、その激しい風が吹きでもしてくれたら、いとしいあの子の嘆きの霧に、心ゆくまで包まれていることができように)
妻の想いを、そして妻の嘆きを思いのままに受け止めることのできないもどかしさを嘆き、もっともっと風が吹いてくれれば、大和で別れを告げた妻の嘆きをまっ白な霧に全てを包み込んでずっとずっと感じていたいと歌い上げました。いにしえ人は全身全霊で夫を、そして妻を愛していたんですね。
 「嘆きの霧」1300年前の心がここに生きていました。            完
                                
 最後までお読み下さってありがとうございます。
 ありがとうございました。感謝。


参考文献
  万葉集全注巻十五   伊藤博他著 有閣社    1983
  万葉集全訳注原文付  中西進著  講談社    1984
  万葉の人々      犬養孝   PHP研究所  1978
  万葉の旅 上•中•下  犬養孝   社会思想社  1964
  日本書紀 全現代語訳 宇治谷孟  講談社    1988
                          他
 *尚、解説については参考文献を基にした、私自身の解釈です。真実を知りたい方は遣新羅使人に直接お聞き下さい。

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